高倉山・中尾山城(萩市江崎・下田万) [県北部の山]
高倉山は二十数年前に一度歩いており、北麓の本町側から登り平原側へ降りている。
『城郭放浪記』の所在図には、高倉山の西尾根上に中尾山城の表示があるのみで踏査記録等がないが、合わせて歩いてみた。
中尾山城跡周辺の斜面は段状の削平地に囲まれ、石積なども見受けられるが、崩落防止等の目的で近年設置されたものかどうか、素人の目には判別できない。
帰路はヤマップで報告されている南麓の林道へ下るルートを取ってみた。(2022.3.28)
江崎漁港から高倉山
中尾山城(西方向から)
(1,2クリックで拡大)
●駐車地~中尾山城
国道191号沿いにある駐車表示のところへ車を置く。そばの田圃は菜の花の真っ盛りだった。
菜の花畑・左は高倉山(手前120mピーク)
国道を北上し、「西堂寺六角堂 ←300m」の看板の手前で右折し舗装道を進む。奥に老人憩の家があり、未舗装の幅広道に入る。すぐにイノシシワナが設置されたところで道は終わり、前方に堰堤を見る。
西堂寺六角堂300m看板・舗装道分岐
老人憩の家
未舗装道に入る
イノシシワナ
砂防堰堤
堰堤の右端を越えて谷に下り、沢を渡って斜面を上がると林道跡らしき道に出合う。
沢渡り
林道跡?(右方向)
道を横切り、崩壊防止ネットが設置された斜面に取り付く。少し登ると2mほどの段差がある削平された植林斜面となる。
崩落跡・防護ネット
段状の斜面
段状斜面(横から)
段状斜面
雑木疎林尾根となり勾配が緩むと、中尾山城跡の一角と思われる70m平坦ピーク①に着く。雑木疎林に囲まれ展望もなく、特徴的なものは見当たらない。
疎林尾根の上り
勾配が緩む
70m平坦ピーク①
疎林平坦地
鞍部へ降りると、右の谷にも段状地が続いている。
鞍部
樹間に尻高山
鞍部から右谷方向
登り返すと70m平坦ピーク➁に着く。こちらも特に記すべきものはない。
疎林・上り
70m平坦ピーク②
●~高倉山
鞍部へ向けて下るとこちらの斜面にも段状地が続いている。
段状地(横から)
疎林尾根(段状地)・下り
段状地(横から)
段状地(逆方向)
鞍部から植林尾根へ登り返すと、やはり段状地があり石積も所々見られる。
鞍部の石垣
植林・雑木尾根、石垣
雑木尾根・段状地(横から)
段状地・上り
雑木尾根に変わり、シダ尾根になったところで、左へよけながらトラバース気味に進むと竹交じりの100m鞍部へ出る。
疎林尾根・左へ
右のシダ尾根
100m鞍部.
左折し疎林尾根を登ると小岩が並ぶ110m支尾根合流点に着く。
竹交じり疎林尾根・上り
小岩が並ぶ
110m支尾根合流点
薄いシダをよけながら緩い尾根を進む。120m支尾根合流点を過ぎ、シダ被りの130m支尾根合流点を左に過ごす。
シダ尾根・右へよける
薄いシダ尾根
120m支尾根合流点
疎林
左に130m支尾根合流点を過ごす
疎林
幅広い凹状の尾根を進み、140m支尾根合流点を過ぎると平坦な高倉山山頂に着く。三等三角点「高倉」を見て、その先に石祠二基、倒壊石鳥居がある。
樹木に囲まれ展望は得られない。
緩い疎林尾根
凹状の尾根
140m支尾根合流点
高倉山山頂
三等三角点「高倉」
石祠二基
倒壊石鳥居
●~駐車地
帰路は南西尾根へ向けて下る。広い雑木疎林尾根で、所々ピンクテープが付いている。
130m支尾根分岐点で南方向へ取るとすぐ左に作業道跡と出合う。作業道は尾根と並行に下っているのでどちらも歩けそうだが、テープにしたがい尾根上の踏み跡をたどる。
疎林尾根
130m支尾根分岐点
作業道出合い
細尾根となり、100m支尾根分岐点①、鞍部と下っていくと、100m支尾根分岐点②で植林帯の頂部に出る。
雑木細尾根
100m支尾根分岐点①
細尾根鞍部
細尾根
100m支尾根分岐点②・植林頂部
植林境を南に下る。シダ等でやや植林境が荒れてくるが、構わず植林境を下っていくと、右の谷に配水施設が見える。
植林境・下り
植林境・下り
右下の谷に配水施設
下り切り、右の配水施設横へ出て、取り付け道を下ると舗装された林道江津線へ降り立つ。
配水施設
下方に舗装林道
下降地点(逆方向)
右折し、舗装林道(林道江津線)を下って駐車地へ戻る。
林道
林道分岐
林道江津線看板
■中尾山城について
帰宅後調べてみると、『田万川町史』に調査記録が記載されていた。
山城跡は二つの70mピークにまたがっているようで、次の記述がある。
「頂上は削平されて広い平坦地となっている。北東から南西にかけて郭の跡がある。堀切り、石垣などは見当たらないが、一段高いところに櫓の跡と思われる円形の土塁の跡がある。遺構としてはそれ以外は見当たらないが、麓から、山頂まで近距離で、しかも勾配もゆるやかなことから居館は山裾の谷あいにあったのではなかろうかと思われる。」
削平した段状地や石垣にはまったく触れられていない。やはり近年の段々畑の跡か砂防目的の削平といったところか? 櫓跡については確認できなかった。
中尾山城については地下上申や風土注進案に記載はなく、1984年に田万川町内で発見された「篠原氏系図」に記述があるとのこと。篠原一族は大内家の家臣で一時期中尾山城主であり、系図は江戸初期にその子孫が残したものという。
また、堰堤の上方で横切った林道跡は須佐に通じる旧往還道らしい。
なお、『地下上申』江崎村の御立山の項には「中尾山 先養九郎之上に有之」の記載があるが、同じ山を指すかは不明。
『城郭放浪記』の所在図には、高倉山の西尾根上に中尾山城の表示があるのみで踏査記録等がないが、合わせて歩いてみた。
中尾山城跡周辺の斜面は段状の削平地に囲まれ、石積なども見受けられるが、崩落防止等の目的で近年設置されたものかどうか、素人の目には判別できない。
帰路はヤマップで報告されている南麓の林道へ下るルートを取ってみた。(2022.3.28)
江崎漁港から高倉山
中尾山城(西方向から)
(1,2クリックで拡大)
●駐車地~中尾山城
国道191号沿いにある駐車表示のところへ車を置く。そばの田圃は菜の花の真っ盛りだった。
菜の花畑・左は高倉山(手前120mピーク)
国道を北上し、「西堂寺六角堂 ←300m」の看板の手前で右折し舗装道を進む。奥に老人憩の家があり、未舗装の幅広道に入る。すぐにイノシシワナが設置されたところで道は終わり、前方に堰堤を見る。
西堂寺六角堂300m看板・舗装道分岐
老人憩の家
未舗装道に入る
イノシシワナ
砂防堰堤
堰堤の右端を越えて谷に下り、沢を渡って斜面を上がると林道跡らしき道に出合う。
沢渡り
林道跡?(右方向)
道を横切り、崩壊防止ネットが設置された斜面に取り付く。少し登ると2mほどの段差がある削平された植林斜面となる。
崩落跡・防護ネット
段状の斜面
段状斜面(横から)
段状斜面
雑木疎林尾根となり勾配が緩むと、中尾山城跡の一角と思われる70m平坦ピーク①に着く。雑木疎林に囲まれ展望もなく、特徴的なものは見当たらない。
疎林尾根の上り
勾配が緩む
70m平坦ピーク①
疎林平坦地
鞍部へ降りると、右の谷にも段状地が続いている。
鞍部
樹間に尻高山
鞍部から右谷方向
登り返すと70m平坦ピーク➁に着く。こちらも特に記すべきものはない。
疎林・上り
70m平坦ピーク②
●~高倉山
鞍部へ向けて下るとこちらの斜面にも段状地が続いている。
段状地(横から)
疎林尾根(段状地)・下り
段状地(横から)
段状地(逆方向)
鞍部から植林尾根へ登り返すと、やはり段状地があり石積も所々見られる。
鞍部の石垣
植林・雑木尾根、石垣
雑木尾根・段状地(横から)
段状地・上り
雑木尾根に変わり、シダ尾根になったところで、左へよけながらトラバース気味に進むと竹交じりの100m鞍部へ出る。
疎林尾根・左へ
右のシダ尾根
100m鞍部.
左折し疎林尾根を登ると小岩が並ぶ110m支尾根合流点に着く。
竹交じり疎林尾根・上り
小岩が並ぶ
110m支尾根合流点
薄いシダをよけながら緩い尾根を進む。120m支尾根合流点を過ぎ、シダ被りの130m支尾根合流点を左に過ごす。
シダ尾根・右へよける
薄いシダ尾根
120m支尾根合流点
疎林
左に130m支尾根合流点を過ごす
疎林
幅広い凹状の尾根を進み、140m支尾根合流点を過ぎると平坦な高倉山山頂に着く。三等三角点「高倉」を見て、その先に石祠二基、倒壊石鳥居がある。
樹木に囲まれ展望は得られない。
緩い疎林尾根
凹状の尾根
140m支尾根合流点
高倉山山頂
三等三角点「高倉」
石祠二基
倒壊石鳥居
●~駐車地
帰路は南西尾根へ向けて下る。広い雑木疎林尾根で、所々ピンクテープが付いている。
130m支尾根分岐点で南方向へ取るとすぐ左に作業道跡と出合う。作業道は尾根と並行に下っているのでどちらも歩けそうだが、テープにしたがい尾根上の踏み跡をたどる。
疎林尾根
130m支尾根分岐点
作業道出合い
細尾根となり、100m支尾根分岐点①、鞍部と下っていくと、100m支尾根分岐点②で植林帯の頂部に出る。
雑木細尾根
100m支尾根分岐点①
細尾根鞍部
細尾根
100m支尾根分岐点②・植林頂部
植林境を南に下る。シダ等でやや植林境が荒れてくるが、構わず植林境を下っていくと、右の谷に配水施設が見える。
植林境・下り
植林境・下り
右下の谷に配水施設
下り切り、右の配水施設横へ出て、取り付け道を下ると舗装された林道江津線へ降り立つ。
配水施設
下方に舗装林道
下降地点(逆方向)
右折し、舗装林道(林道江津線)を下って駐車地へ戻る。
林道
林道分岐
林道江津線看板
■中尾山城について
帰宅後調べてみると、『田万川町史』に調査記録が記載されていた。
山城跡は二つの70mピークにまたがっているようで、次の記述がある。
「頂上は削平されて広い平坦地となっている。北東から南西にかけて郭の跡がある。堀切り、石垣などは見当たらないが、一段高いところに櫓の跡と思われる円形の土塁の跡がある。遺構としてはそれ以外は見当たらないが、麓から、山頂まで近距離で、しかも勾配もゆるやかなことから居館は山裾の谷あいにあったのではなかろうかと思われる。」
削平した段状地や石垣にはまったく触れられていない。やはり近年の段々畑の跡か砂防目的の削平といったところか? 櫓跡については確認できなかった。
中尾山城については地下上申や風土注進案に記載はなく、1984年に田万川町内で発見された「篠原氏系図」に記述があるとのこと。篠原一族は大内家の家臣で一時期中尾山城主であり、系図は江戸初期にその子孫が残したものという。
また、堰堤の上方で横切った林道跡は須佐に通じる旧往還道らしい。
なお、『地下上申』江崎村の御立山の項には「中尾山 先養九郎之上に有之」の記載があるが、同じ山を指すかは不明。
2022-03-31 21:31
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