鰐坊山・鰐坊山城(萩市下田万) [県北部の山]
鹿ヶ嶽下山後、近傍で同じく城跡がある鰐坊山へ向かう。以前から地形図には山名を記し、城郭跡とは承知していたが、下調べもせず歩いたので、帰宅後『城郭放浪記』を見て、肝心の城郭跡を見逃してしまったことを知り唖然とした。(2022.3.24)
市味より鰐坊山(左が三角点ピーク)
湊大橋より鰐坊山城(右)
(1,2クリックで拡大)
●駐車地~鰐坊山北峰~鰐坊山南峰(三角点ピーク)
国道191号線を降り市味集落に下ると、国道の高架下に駐車スペースがある。
民家の北側から水路沿いの道に入る。
民家脇の小道(逆方向)
水路沿いに谷に入るとまもなく砂防堰堤①に出合う。右端から堰堤を越え谷へ降りる。
コン水路沿い
堰堤①
谷を進むと再び砂防堰堤②に出合う。これも右端を越える。右斜面はヒノキ植林が続く。
植林谷
堰堤②
沢を詰めていくと谷が広くなり、登り切ると鞍部へ出る。
涸れ沢.
涸れ沢
谷が広くなる
鞍部手前
鞍部から左尾根
鞍部から右尾根
右折し、まず北峰をめざす。雑木尾根を登り切ると標高120mの鰐坊山北峰へ着く。最高処よりやや北側に石杭「境界」と黄ポールを見る。展望は樹間越しに得られる程度。
雑木尾根
薄いシダ
シダ沿い
雑木尾根
北ピーク手前
北ピーク(120m)
石杭「境界」・黄ポール
鞍部へ戻り、三角点ピークをめざす。
緩い雑木尾根を登っていくとすぐに鰐坊山南峰に着く。山頂は平坦広場で、保護石で四方を支えられた中に四等三角点「鰐坊」がある。展望は得られない。
薄いシダ
雑木尾根
雑木尾根
鰐坊山山頂
四等三角点「鰐坊」
●~堀切跡~駐車地
帰路は南西に延びる尾根を下ってみる。
植林境からすぐに雑木尾根に変わる。
植林境・下り
雑木尾根・下り
雑木尾根
鞍部
70mピークでは炭焼窯程度の小穴(くぼみ)があった。
70mピーク
小穴
石杭「境界」をみるとまもなく50m鞍部に出て、登り返すと60mピークに着く。
少し下ったところに共同テレビアンテナ跡が残っている。
雑木尾根・下り
石杭「境界」
鞍部
60mピーク
共同TVアンテナ跡
50mピークを過ぎると、この先緩いアップダウンの細尾根が続く。右下は急斜面となっている。
雑木尾根
50mピーク
高低差のある堀切①に出合う。切通し状になっており、北の海側からの風が吹き抜けて冷たい。
堀切①
堀切①(横から)
尾根によじ登って先へ進むと、次はさらに崖状に掘削され高さ5m以上はある堀切②に出合う。
細尾根
堀切②
堀切②
堀切②(横から)
堀切がこれまで経験したことがない高低差のある崖状であったことと、「城郭は山頂」という先入観があったことから、二つの堀切跡を見ても、採石場があったようではないし何だろうといぶかしく思っただけだった。
まさか本命はこの先にあるとは思いもよらず、この先こんなガケが続いたらたまらないと、ちょうど左谷の方は急勾配ながら古道が残っている感じなのを幸いに、先へ進むことをあきらめ、ここで下ることにした。
少し下るとピンクテープが付いている。先達も同じ考えだったかと思いながら下る。
急な下り
下り
途中、踏み跡から外れた方向だがテープに釣られて右の平坦地に下りたら、古墓があった。墓石が重ねられている。
平坦地
古墓①
もとに戻って谷を少し下るとここにも重ねられた古墓があった。墓石のひとつには「明和」(江戸中期)の年号が刻まれている。
古墓②
新しい墓を過ごすと農道へ出た。
タケ・墓
下降地点(逆方向)
防獣柵ゲート
(注)後日、城郭跡の続きを歩いたので、以下に報告したい。西麓からたどったので、上記と逆方向の記述となる。
田万川キャンプ場の駐車場を利用させてもらう。湊大橋を渡り、小川にかかるコンクリート橋を渡る。建物の間の奥のコンクリート階段に取り付く。左側の斜面は伐採されている。
階段は古く、急勾配なので用心しながら登り切ると、コンクリート貯水槽らしき施設がある。施設は掘削されたされた平坦地上に建っており、先は竹や倒竹木が密生している。
急なコン階段・法面伐採
コン階段
貯水槽
高低差の大きい削平地が段状に続き、数段上までは竹の間をすり抜けながら登る。
参考にした『城郭放浪記』の縄張り図は感嘆するほどよく描かれており、素人でも石垣や堀切の位置が確認できた。(注)かっこ書きは縄張り図記載の記号
削平地の倒竹木
石垣
石垣
削平地(曲輪Ⅱ2)・石垣
堀切③(縄張り図では堀切1と記載)もかなりの落差があり、左端側から恐る恐るガケを降りた。
堀切③
堀切③(横から)
削平地(曲輪Ⅰ3)
掘削斜面
こちらにも共同TVアンテナの残骸がころがっていた。平坦地(縄張り図:曲輪Ⅰ2)には目的はわからないがいくつか穴の跡がある。
共同TVアンテナ跡
削平地(曲輪Ⅰ2)
穴
穴(拡大)
次の長い平坦地(縄張り図:曲輪Ⅰ1)を歩き、6mほど落差のあるガケを下ると、3月24日到達点の堀切➁(縄張り図:堀切6)に降り立った。
削平地(曲輪Ⅰ1)
堀切②
このあと、堀切①(縄張り図:堀切9)まで歩き、東側の谷へ下ると、前回の古墓➁に出合い農道へ出た。
堀切①
東の谷
竹林谷
ルート図では、今回のトラックを緑色で表示している。(2022.3.28)
■鰐坊山城について
『地下上申』下田万村石高境目書に次の記述がある。
「鰐坊古城
但石州益田家居城之抱、大谷与三左衛門居城之由申伝候事」
また、『風土注進案』田萬村には次の記述がある。
「鰐坊山城 市味村の乾湊の後ロニあり
但当城は臼井左京亮といへる人の籠り居られし所、天正の頃益田家より攻落され、其跡へ大谷與惣左衛門を籠置れし由申傳に御座候
又一説には秋山筑後守廣道籠りしとも申傳候事
右山の高サ凡壹丁半位にて山上に平地三四畝も有之、所々に堀切たる所もあり、猶石垣なと残りたる所山の腰に御座候、城ハ平地にて山上ニハ矢倉なとの跡はかりと相見へ申候、併戦國の出城にて居城とは見え不申候事」
市味より鰐坊山(左が三角点ピーク)
湊大橋より鰐坊山城(右)
(1,2クリックで拡大)
●駐車地~鰐坊山北峰~鰐坊山南峰(三角点ピーク)
国道191号線を降り市味集落に下ると、国道の高架下に駐車スペースがある。
民家の北側から水路沿いの道に入る。
民家脇の小道(逆方向)
水路沿いに谷に入るとまもなく砂防堰堤①に出合う。右端から堰堤を越え谷へ降りる。
コン水路沿い
堰堤①
谷を進むと再び砂防堰堤②に出合う。これも右端を越える。右斜面はヒノキ植林が続く。
植林谷
堰堤②
沢を詰めていくと谷が広くなり、登り切ると鞍部へ出る。
涸れ沢.
涸れ沢
谷が広くなる
鞍部手前
鞍部から左尾根
鞍部から右尾根
右折し、まず北峰をめざす。雑木尾根を登り切ると標高120mの鰐坊山北峰へ着く。最高処よりやや北側に石杭「境界」と黄ポールを見る。展望は樹間越しに得られる程度。
雑木尾根
薄いシダ
シダ沿い
雑木尾根
北ピーク手前
北ピーク(120m)
石杭「境界」・黄ポール
鞍部へ戻り、三角点ピークをめざす。
緩い雑木尾根を登っていくとすぐに鰐坊山南峰に着く。山頂は平坦広場で、保護石で四方を支えられた中に四等三角点「鰐坊」がある。展望は得られない。
薄いシダ
雑木尾根
雑木尾根
鰐坊山山頂
四等三角点「鰐坊」
●~堀切跡~駐車地
帰路は南西に延びる尾根を下ってみる。
植林境からすぐに雑木尾根に変わる。
植林境・下り
雑木尾根・下り
雑木尾根
鞍部
70mピークでは炭焼窯程度の小穴(くぼみ)があった。
70mピーク
小穴
石杭「境界」をみるとまもなく50m鞍部に出て、登り返すと60mピークに着く。
少し下ったところに共同テレビアンテナ跡が残っている。
雑木尾根・下り
石杭「境界」
鞍部
60mピーク
共同TVアンテナ跡
50mピークを過ぎると、この先緩いアップダウンの細尾根が続く。右下は急斜面となっている。
雑木尾根
50mピーク
高低差のある堀切①に出合う。切通し状になっており、北の海側からの風が吹き抜けて冷たい。
堀切①
堀切①(横から)
尾根によじ登って先へ進むと、次はさらに崖状に掘削され高さ5m以上はある堀切②に出合う。
細尾根
堀切②
堀切②
堀切②(横から)
堀切がこれまで経験したことがない高低差のある崖状であったことと、「城郭は山頂」という先入観があったことから、二つの堀切跡を見ても、採石場があったようではないし何だろうといぶかしく思っただけだった。
まさか本命はこの先にあるとは思いもよらず、この先こんなガケが続いたらたまらないと、ちょうど左谷の方は急勾配ながら古道が残っている感じなのを幸いに、先へ進むことをあきらめ、ここで下ることにした。
少し下るとピンクテープが付いている。先達も同じ考えだったかと思いながら下る。
急な下り
下り
途中、踏み跡から外れた方向だがテープに釣られて右の平坦地に下りたら、古墓があった。墓石が重ねられている。
平坦地
古墓①
もとに戻って谷を少し下るとここにも重ねられた古墓があった。墓石のひとつには「明和」(江戸中期)の年号が刻まれている。
古墓②
新しい墓を過ごすと農道へ出た。
タケ・墓
下降地点(逆方向)
防獣柵ゲート
(注)後日、城郭跡の続きを歩いたので、以下に報告したい。西麓からたどったので、上記と逆方向の記述となる。
田万川キャンプ場の駐車場を利用させてもらう。湊大橋を渡り、小川にかかるコンクリート橋を渡る。建物の間の奥のコンクリート階段に取り付く。左側の斜面は伐採されている。
階段は古く、急勾配なので用心しながら登り切ると、コンクリート貯水槽らしき施設がある。施設は掘削されたされた平坦地上に建っており、先は竹や倒竹木が密生している。
急なコン階段・法面伐採
コン階段
貯水槽
高低差の大きい削平地が段状に続き、数段上までは竹の間をすり抜けながら登る。
参考にした『城郭放浪記』の縄張り図は感嘆するほどよく描かれており、素人でも石垣や堀切の位置が確認できた。(注)かっこ書きは縄張り図記載の記号
削平地の倒竹木
石垣
石垣
削平地(曲輪Ⅱ2)・石垣
堀切③(縄張り図では堀切1と記載)もかなりの落差があり、左端側から恐る恐るガケを降りた。
堀切③
堀切③(横から)
削平地(曲輪Ⅰ3)
掘削斜面
こちらにも共同TVアンテナの残骸がころがっていた。平坦地(縄張り図:曲輪Ⅰ2)には目的はわからないがいくつか穴の跡がある。
共同TVアンテナ跡
削平地(曲輪Ⅰ2)
穴
穴(拡大)
次の長い平坦地(縄張り図:曲輪Ⅰ1)を歩き、6mほど落差のあるガケを下ると、3月24日到達点の堀切➁(縄張り図:堀切6)に降り立った。
削平地(曲輪Ⅰ1)
堀切②
このあと、堀切①(縄張り図:堀切9)まで歩き、東側の谷へ下ると、前回の古墓➁に出合い農道へ出た。
堀切①
東の谷
竹林谷
ルート図では、今回のトラックを緑色で表示している。(2022.3.28)
■鰐坊山城について
『地下上申』下田万村石高境目書に次の記述がある。
「鰐坊古城
但石州益田家居城之抱、大谷与三左衛門居城之由申伝候事」
また、『風土注進案』田萬村には次の記述がある。
「鰐坊山城 市味村の乾湊の後ロニあり
但当城は臼井左京亮といへる人の籠り居られし所、天正の頃益田家より攻落され、其跡へ大谷與惣左衛門を籠置れし由申傳に御座候
又一説には秋山筑後守廣道籠りしとも申傳候事
右山の高サ凡壹丁半位にて山上に平地三四畝も有之、所々に堀切たる所もあり、猶石垣なと残りたる所山の腰に御座候、城ハ平地にて山上ニハ矢倉なとの跡はかりと相見へ申候、併戦國の出城にて居城とは見え不申候事」
2022-03-30 00:34
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