津尾山・城山(上関町八島) [離島の山]
4年ぶり2回目の渡島。島は北から与崎、小島、大島と大きく三つの地域で呼ばれる。前回は大島を中心に歩いたので、今回は小島の先の与崎をめざすことにした。
あわよくば三角点と北端の洲崎まで足を延ばそうと思っていたが、与崎取り付きの急斜面を目の当たりにすると、すぐにその気が失せた。
最後は、269.1mの三角点ピーク(岡山)の北西尾根中腹にあるという城山(じょうやま)を探索してみた。(2015.03.20)
津尾山(小島)
(1,2クリックで拡大)
室津港午前6時20分発の定期船「かみのせき丸」に乗り、およそ30分で八島港へ着く。
八島の「かみのせき丸」
待合所
すぐに海岸沿いの舗装道を歩いて小島へ向かう。
小島
八島港(逆方向)
かみのせき丸と祝島
小島へ入り上りにかかると、電柱保全のためか斜面の樹木が伐採されており、以前より明るい感じがする。
島の右(東)側を樹間越しに眺めながら進み、中央部あたりで尾根を切って今度は左(西)側の眺めに変わる。
大島(逆方向)
平郡島
舗装道(逆方向)
東側の海岸線(逆方向)
伐採法面
前方に津尾山山頂
前回と同じく右カーブの所から尾根に取り付き、津尾山をめざす。左斜面が小段状となったヤブ気味の尾根を、ツルをよけながら登り切ると、平坦な小ピークの山頂へ着く。四等三角点「小島」がポツンとある。周りの樹木に遮られ展望は得られない。
帰路はやや右の斜面寄りに降りてみたが、歩きやすさはあまり変わらなかった。
取り付き斜面
やぶ加減の尾根
四等三角点
津尾山山頂(逆方向)
舗装道を200mほど下ると、道の左側に屋根だけの小屋があった。平成の初めごろまでは島で牛の放牧が行われており、島の各所に集牛場があったようだが、その名残りだろうか。
(注)八島の牛の放牧ついては、伊藤徹男氏の論文「周防八島における牛の共同放牧の展開」(立命館地理学第16号、2004年)に詳しい。
集牛場跡?
さらに100mほど下ると、道の右わきに小さなコンクリートの水槽が三基ある。これが牛の水呑み場跡と思われる。上記論文掲載の地図によると、「ツキノミゾ」と呼ばれるこのあたりに水呑み場と集牛場があったようだ。
水呑み場
尾根を右へ横切り谷沿いに下っていくと前方が開け、古浦と陸繋島となった与崎が現われる。
堤防の突端まで行き、与崎の急勾配の尾根を見て登るのは諦め、まずは八島神社へ向かう。
古浦
与崎
与崎
分岐に小さな墓があった。「○○信女」と二つの戒名が並んでいる。裏には建立者とみられる「岩成屋文太?」の名と「明治元辰十一月十六日」の日付が読み取れる。
その先には石仏がある。
墓
平郡島
石仏
キャンプ場は既に閉鎖され荒地に変わっている。船着場があり、夏場には定期船も運航されていたようだ。
神社入口には石鳥居、石灯籠、石祠、常夜燈などがある。鳥居は大正年間の年号があり比較的新しいが、他は文化、文政、嘉永と江戸末期の年号が刻まれている。昔は集落があったらしいが、古浦という地名からすると、もともとはこちらの方が古い集落だったのだろう。
神社・裏山
石鳥居・灯籠・石祠
両側がヨシヤブとなった参道を進み、二つ目の鳥居をくぐり左折すると神社がある。現在の人口からすると立派な社殿だ。右奥に古い石祠などが鎮座している。
石段・上の鳥居
幅広の参道
石柱状の鳥居
八島神社
奥の石祠など
海側へ戻り、浜沿いに歩いて与崎へ続く砂洲まで行ってみた。先ほどまで繋がっていた砂州が波に現われ切れかけている。この分だと満潮時には切れてしまうのかもしれない。渡らなくてよかった。
波に現われる砂洲
同上
今度は船着場の方へ向かう。堤防上を進むと、岩礁の斜面に小さな石祠があった。船着場の突端に立つと室津半島や長島などの眺めがよい。
船着場の岩礁
船着場への堤防(逆方向)
岩礁に建つ石祠
船着場突端から与崎
皇座山
上盛山
雲を被った祝島
岩礁に生えるビャクシン
舗装道を戻り、小島と大島を繋ぐ砂洲へ向かう。『防長風土注進案』では洲之通(すのとおり)とある。
伐採斜面
津尾山山頂取り付き尾根の反対側カーブあたりは、論文掲載地図によると「サイノモト」の集牛場があったところのようだ。
道路斜面に残る有刺鉄線は牛の放牧場の名残りだろう。
有刺鉄線の柵
サイノモトの集牛場跡?.
樹間の砂洲
惣崎(逆方向)
ヘリポートへ左折する道はこの4年の間に潰れてしまったようで、荒地となり、どこが道だったかさえもわからくなっている。
西側の海岸線・大島
西側の海岸線・小島(逆方向)
荒地となった砂洲
砂洲の終端部まで行き、分岐を左折すると東側の海岸堤防へ出る。右の石垣の奥に神社がある(今回も島の人に神社名を聞くのを忘れた)。
神社
東側の海岸線・盛鼻
東側の海岸線・惣崎(逆方向)
八十八箇所巡りの石仏群も健在だった。
石仏群
同上
ヘリポートの先へ出て以前歩いた道を探してみたら、ヤダケが繁茂し潰れていた。
ヘリポート
ヘリポート横の潰れた道
西側の海岸沿いの道へ戻り、最後に城山をめざす。『防長風土注進案』の小名の項に城山の名が見える。また『上関町史』(昭和63年発行)の「八島の城山」の項に、次の記述がある。
「八島の集落の後背には海抜269.1メートルの岡山があり、これから集落に向かって北西方向に降ると、海抜90メートルあたり、海側に出張ったところがある。この部分が城山と呼ばれている。城山へは集落から山の神-行者堂(石組のみ)を経て頂上に達する。頂上には狭い平地があって、「お伊勢様」の石祠があるが自然木のために倒壊しかけている。城としての施設は見出せない。頂上の狭さ、眺望の良さからみても、やはり物見場所として用いられたのであろう。」
岡山から北西に延びる支尾根の標高90mあたりにあるというので、集落手前の海岸から集落の上部へあがる舗装道から取り付くことにする。
岡山北西尾根(城山)
分岐で舗装道を左折し山手へ向かう。大きく左へカーブするところの手前に手摺りのあるコンクリート道が上がっている。
舗装道分岐
舗装道
取り付きのコン道(逆方向)
これを登るとすぐに石垣状に組まれた斜面に小さな石祠3基と灯籠2基を見る(後で待合所のおばさんに、これが「山の神」だと教わる)。
山の神(石祠・灯籠)
横から
ガレ石の斜面を登るとすぐに古い巻き道に出会うがそのままヤブ気味の尾根を登る。最近人が歩いたような踏み跡があり、さては同好の士がいたかと苦笑い。
ガレ石の尾根
巻き道
草被りの尾根
ツタが這う
標高90mあたりに削平地があり、左へ巻き道が続いている。標高からするとここらあたりが城山かと思ったが、それらしき石祠もなく、尾根の途中でもあり、城らしき雰囲気にもかける。
削平地
そこでさらに上方へ向かうことにする。勾配が緩み、ツタにびっしりと覆われた尾根を踏んで行くと、前方にさほど大きくはないが雰囲気のある角ばった岩が現われた。
ヤブ尾根
平坦尾根
岩
岩を右に回りこむと平坦地に出て、前に小さな立石が二つ並ぶ。樹間越しだが北方向に津尾山などが見える。しかし肝腎の石祠が見当たらない。
二つの立石
立石のある平坦地(左横から)
津尾山
もう少し先へ行ってみるかと、立石の右側へ向かうと、右斜面に石垣が見えた。斜面の下へ降りて、そばで見ると石積みの様子から人工的に積まれた石垣に間違いない。
西側の石垣
同上
斜面を戻り、石垣の上部へ上がると、長方形の石垣に囲まれた狭い平坦地に出た。倒木の下に石祠が2基見える。左の祠は自然石を利用したもので時代が古いようだ。もうひとつは花崗岩製で倒木のため倒壊している。これが町史にあった「お伊勢様」に違いない。したがってここが城山山頂である。
標高は120mはあるので、町史の記載が違っていたようだ。
石垣(東側)
石垣(西側)
石垣(北側)
石垣(南側)・石祠
二つの石祠(お伊勢様)
古い石祠
倒壊した石祠
立石(北側)
石垣(南側下段から逆方向)
樹間に祝島などが望見できる。東側の斜面からは平郡島も眺められる。自然石を利用しその上に石垣を築いている。西側は崖状の岩壁となっている。町史にもあるように城と言うより物見場として利用されたと思われる。
祝島
山頂東側斜面
山頂西側斜面
南側に一段下った所も平坦地となり低い石垣がある。
南側平坦地
南側平坦地(逆方向)
南側平坦地の石積み(逆方向)
その先へ下ると、見覚えのある鞍部へ出た。前回上がって来たところだ。巻き道を左へ進むと、未舗装の林道へ出る。相変わらずヤブ気味だ。
鞍部・山道
鞍部から山頂方向
鞍部西側の石垣
林道と出会う
鞍部へ戻り、谷に残る山道を下る。草被りが多く、あまり利用されていないようだ。
草被りの谷道
途中左右に道が分かれるので、左へ向かうと明瞭な石垣沿いの山道が続くが、開けたあたりで突然ツル等に覆われたヤブ道となる。下はマント状にツルが覆っている。下に舗装道が見えるが、途中をつなぐ道が消えてしまっている。この4年間で様子が変わったようだ。
左の巻き道
荒れ道となる
やむなく少し戻り、左の段状斜面をトラバースしながら進むと、石垣沿いの古道へ出た。上方を見るとその先は不明瞭で、道が続いているかどうか不明である。船の時間が気になったので、登りかえさずそのまま下ると舗装道へ出た。左に電柱風の施設ができている。放射線測量関係のものかもしれない。
古道
上方の山道?
下降地点(逆方向)
電柱風施設
下の集落へ下る道を見つけて、民家の庭先を通らせてもらいながら下っていくと、船着場近くの舗装道へ出た。
舗装道からの下降地点
路地
消防機庫?・コン道
コン道
出航まであまり時間がなかったが、待合所のおばさんから城山のことなど教えてもらった。
舗装道上の石祠は「山の神」に間違いないとのこと。
行者堂の御本体は寺へ移したらしい。御本体は観音様では?とのことだったが、「下駄を履いた観音様」いわゆる役行者の像かもしれない。行者堂の場所はうかがえなかったが、城山山頂手前の二つの立石がある平坦地か、下方の削平された平坦地あたりではなかろうか。
城山へは小学校の遠足などで弁当を持って上がっていたとのこと。
港近くにある神社は、サンゴが供えてあったので、「えびす様」ではと尋ねたところ、そのとおりだとの答えが返ってきた。
蛭子浦という本来の集落名は、この神社由来だろう。
えびす神社
13時発の便に乗船し、室津港へ戻った。
■城山
『防長風土注進案』八島の古城跡古戦場の項に次の記載がある。
城山
郷北に有之、城跡と申程之事ハ無之候得共古戦場と里老申傳、或人之詩ニ
昔聽軍營迹、今登千仭山、豊城明月色、劍氣照人間
■山の神
注進案の神祠の項に、「山神祠 城山ニ有之」という記述が見える。
■行者堂
注進案の寺院の項で、浄福寺の縁起のくだりに、「されハ厥眺望ハ東方ニ役優塞の堂、東は葛城の雲を起し、城山の秋の月ハ明輝を揚け、云々」と寺からの眺めの記述がある。
役優塞とは役小角の尊称「役優婆塞」だろう。優婆塞(うばそく)とはサンスクリット語で男性の在家信者のこと。
また役行者は葛城出身であることから上記のような表現を使ったのだろう。
あわよくば三角点と北端の洲崎まで足を延ばそうと思っていたが、与崎取り付きの急斜面を目の当たりにすると、すぐにその気が失せた。
最後は、269.1mの三角点ピーク(岡山)の北西尾根中腹にあるという城山(じょうやま)を探索してみた。(2015.03.20)
津尾山(小島)
(1,2クリックで拡大)
室津港午前6時20分発の定期船「かみのせき丸」に乗り、およそ30分で八島港へ着く。
八島の「かみのせき丸」
待合所
すぐに海岸沿いの舗装道を歩いて小島へ向かう。
小島
八島港(逆方向)
かみのせき丸と祝島
小島へ入り上りにかかると、電柱保全のためか斜面の樹木が伐採されており、以前より明るい感じがする。
島の右(東)側を樹間越しに眺めながら進み、中央部あたりで尾根を切って今度は左(西)側の眺めに変わる。
大島(逆方向)
平郡島
舗装道(逆方向)
東側の海岸線(逆方向)
伐採法面
前方に津尾山山頂
前回と同じく右カーブの所から尾根に取り付き、津尾山をめざす。左斜面が小段状となったヤブ気味の尾根を、ツルをよけながら登り切ると、平坦な小ピークの山頂へ着く。四等三角点「小島」がポツンとある。周りの樹木に遮られ展望は得られない。
帰路はやや右の斜面寄りに降りてみたが、歩きやすさはあまり変わらなかった。
取り付き斜面
やぶ加減の尾根
四等三角点
津尾山山頂(逆方向)
舗装道を200mほど下ると、道の左側に屋根だけの小屋があった。平成の初めごろまでは島で牛の放牧が行われており、島の各所に集牛場があったようだが、その名残りだろうか。
(注)八島の牛の放牧ついては、伊藤徹男氏の論文「周防八島における牛の共同放牧の展開」(立命館地理学第16号、2004年)に詳しい。
集牛場跡?
さらに100mほど下ると、道の右わきに小さなコンクリートの水槽が三基ある。これが牛の水呑み場跡と思われる。上記論文掲載の地図によると、「ツキノミゾ」と呼ばれるこのあたりに水呑み場と集牛場があったようだ。
水呑み場
尾根を右へ横切り谷沿いに下っていくと前方が開け、古浦と陸繋島となった与崎が現われる。
堤防の突端まで行き、与崎の急勾配の尾根を見て登るのは諦め、まずは八島神社へ向かう。
古浦
与崎
与崎
分岐に小さな墓があった。「○○信女」と二つの戒名が並んでいる。裏には建立者とみられる「岩成屋文太?」の名と「明治元辰十一月十六日」の日付が読み取れる。
その先には石仏がある。
墓
平郡島
石仏
キャンプ場は既に閉鎖され荒地に変わっている。船着場があり、夏場には定期船も運航されていたようだ。
神社入口には石鳥居、石灯籠、石祠、常夜燈などがある。鳥居は大正年間の年号があり比較的新しいが、他は文化、文政、嘉永と江戸末期の年号が刻まれている。昔は集落があったらしいが、古浦という地名からすると、もともとはこちらの方が古い集落だったのだろう。
神社・裏山
石鳥居・灯籠・石祠
両側がヨシヤブとなった参道を進み、二つ目の鳥居をくぐり左折すると神社がある。現在の人口からすると立派な社殿だ。右奥に古い石祠などが鎮座している。
石段・上の鳥居
幅広の参道
石柱状の鳥居
八島神社
奥の石祠など
海側へ戻り、浜沿いに歩いて与崎へ続く砂洲まで行ってみた。先ほどまで繋がっていた砂州が波に現われ切れかけている。この分だと満潮時には切れてしまうのかもしれない。渡らなくてよかった。
波に現われる砂洲
同上
今度は船着場の方へ向かう。堤防上を進むと、岩礁の斜面に小さな石祠があった。船着場の突端に立つと室津半島や長島などの眺めがよい。
船着場の岩礁
船着場への堤防(逆方向)
岩礁に建つ石祠
船着場突端から与崎
皇座山
上盛山
雲を被った祝島
岩礁に生えるビャクシン
舗装道を戻り、小島と大島を繋ぐ砂洲へ向かう。『防長風土注進案』では洲之通(すのとおり)とある。
伐採斜面
津尾山山頂取り付き尾根の反対側カーブあたりは、論文掲載地図によると「サイノモト」の集牛場があったところのようだ。
道路斜面に残る有刺鉄線は牛の放牧場の名残りだろう。
有刺鉄線の柵
サイノモトの集牛場跡?.
樹間の砂洲
惣崎(逆方向)
ヘリポートへ左折する道はこの4年の間に潰れてしまったようで、荒地となり、どこが道だったかさえもわからくなっている。
西側の海岸線・大島
西側の海岸線・小島(逆方向)
荒地となった砂洲
砂洲の終端部まで行き、分岐を左折すると東側の海岸堤防へ出る。右の石垣の奥に神社がある(今回も島の人に神社名を聞くのを忘れた)。
神社
東側の海岸線・盛鼻
東側の海岸線・惣崎(逆方向)
八十八箇所巡りの石仏群も健在だった。
石仏群
同上
ヘリポートの先へ出て以前歩いた道を探してみたら、ヤダケが繁茂し潰れていた。
ヘリポート
ヘリポート横の潰れた道
西側の海岸沿いの道へ戻り、最後に城山をめざす。『防長風土注進案』の小名の項に城山の名が見える。また『上関町史』(昭和63年発行)の「八島の城山」の項に、次の記述がある。
「八島の集落の後背には海抜269.1メートルの岡山があり、これから集落に向かって北西方向に降ると、海抜90メートルあたり、海側に出張ったところがある。この部分が城山と呼ばれている。城山へは集落から山の神-行者堂(石組のみ)を経て頂上に達する。頂上には狭い平地があって、「お伊勢様」の石祠があるが自然木のために倒壊しかけている。城としての施設は見出せない。頂上の狭さ、眺望の良さからみても、やはり物見場所として用いられたのであろう。」
岡山から北西に延びる支尾根の標高90mあたりにあるというので、集落手前の海岸から集落の上部へあがる舗装道から取り付くことにする。
岡山北西尾根(城山)
分岐で舗装道を左折し山手へ向かう。大きく左へカーブするところの手前に手摺りのあるコンクリート道が上がっている。
舗装道分岐
舗装道
取り付きのコン道(逆方向)
これを登るとすぐに石垣状に組まれた斜面に小さな石祠3基と灯籠2基を見る(後で待合所のおばさんに、これが「山の神」だと教わる)。
山の神(石祠・灯籠)
横から
ガレ石の斜面を登るとすぐに古い巻き道に出会うがそのままヤブ気味の尾根を登る。最近人が歩いたような踏み跡があり、さては同好の士がいたかと苦笑い。
ガレ石の尾根
巻き道
草被りの尾根
ツタが這う
標高90mあたりに削平地があり、左へ巻き道が続いている。標高からするとここらあたりが城山かと思ったが、それらしき石祠もなく、尾根の途中でもあり、城らしき雰囲気にもかける。
削平地
そこでさらに上方へ向かうことにする。勾配が緩み、ツタにびっしりと覆われた尾根を踏んで行くと、前方にさほど大きくはないが雰囲気のある角ばった岩が現われた。
ヤブ尾根
平坦尾根
岩
岩を右に回りこむと平坦地に出て、前に小さな立石が二つ並ぶ。樹間越しだが北方向に津尾山などが見える。しかし肝腎の石祠が見当たらない。
二つの立石
立石のある平坦地(左横から)
津尾山
もう少し先へ行ってみるかと、立石の右側へ向かうと、右斜面に石垣が見えた。斜面の下へ降りて、そばで見ると石積みの様子から人工的に積まれた石垣に間違いない。
西側の石垣
同上
斜面を戻り、石垣の上部へ上がると、長方形の石垣に囲まれた狭い平坦地に出た。倒木の下に石祠が2基見える。左の祠は自然石を利用したもので時代が古いようだ。もうひとつは花崗岩製で倒木のため倒壊している。これが町史にあった「お伊勢様」に違いない。したがってここが城山山頂である。
標高は120mはあるので、町史の記載が違っていたようだ。
石垣(東側)
石垣(西側)
石垣(北側)
石垣(南側)・石祠
二つの石祠(お伊勢様)
古い石祠
倒壊した石祠
立石(北側)
石垣(南側下段から逆方向)
樹間に祝島などが望見できる。東側の斜面からは平郡島も眺められる。自然石を利用しその上に石垣を築いている。西側は崖状の岩壁となっている。町史にもあるように城と言うより物見場として利用されたと思われる。
祝島
山頂東側斜面
山頂西側斜面
南側に一段下った所も平坦地となり低い石垣がある。
南側平坦地
南側平坦地(逆方向)
南側平坦地の石積み(逆方向)
その先へ下ると、見覚えのある鞍部へ出た。前回上がって来たところだ。巻き道を左へ進むと、未舗装の林道へ出る。相変わらずヤブ気味だ。
鞍部・山道
鞍部から山頂方向
鞍部西側の石垣
林道と出会う
鞍部へ戻り、谷に残る山道を下る。草被りが多く、あまり利用されていないようだ。
草被りの谷道
途中左右に道が分かれるので、左へ向かうと明瞭な石垣沿いの山道が続くが、開けたあたりで突然ツル等に覆われたヤブ道となる。下はマント状にツルが覆っている。下に舗装道が見えるが、途中をつなぐ道が消えてしまっている。この4年間で様子が変わったようだ。
左の巻き道
荒れ道となる
やむなく少し戻り、左の段状斜面をトラバースしながら進むと、石垣沿いの古道へ出た。上方を見るとその先は不明瞭で、道が続いているかどうか不明である。船の時間が気になったので、登りかえさずそのまま下ると舗装道へ出た。左に電柱風の施設ができている。放射線測量関係のものかもしれない。
古道
上方の山道?
下降地点(逆方向)
電柱風施設
下の集落へ下る道を見つけて、民家の庭先を通らせてもらいながら下っていくと、船着場近くの舗装道へ出た。
舗装道からの下降地点
路地
消防機庫?・コン道
コン道
出航まであまり時間がなかったが、待合所のおばさんから城山のことなど教えてもらった。
舗装道上の石祠は「山の神」に間違いないとのこと。
行者堂の御本体は寺へ移したらしい。御本体は観音様では?とのことだったが、「下駄を履いた観音様」いわゆる役行者の像かもしれない。行者堂の場所はうかがえなかったが、城山山頂手前の二つの立石がある平坦地か、下方の削平された平坦地あたりではなかろうか。
城山へは小学校の遠足などで弁当を持って上がっていたとのこと。
港近くにある神社は、サンゴが供えてあったので、「えびす様」ではと尋ねたところ、そのとおりだとの答えが返ってきた。
蛭子浦という本来の集落名は、この神社由来だろう。
えびす神社
13時発の便に乗船し、室津港へ戻った。
■城山
『防長風土注進案』八島の古城跡古戦場の項に次の記載がある。
城山
郷北に有之、城跡と申程之事ハ無之候得共古戦場と里老申傳、或人之詩ニ
昔聽軍營迹、今登千仭山、豊城明月色、劍氣照人間
■山の神
注進案の神祠の項に、「山神祠 城山ニ有之」という記述が見える。
■行者堂
注進案の寺院の項で、浄福寺の縁起のくだりに、「されハ厥眺望ハ東方ニ役優塞の堂、東は葛城の雲を起し、城山の秋の月ハ明輝を揚け、云々」と寺からの眺めの記述がある。
役優塞とは役小角の尊称「役優婆塞」だろう。優婆塞(うばそく)とはサンスクリット語で男性の在家信者のこと。
また役行者は葛城出身であることから上記のような表現を使ったのだろう。
2015-03-26 20:51
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