笠松山城・懸の城(萩市須佐) [県北部の山]
須佐地域の二つの城跡を歩いてみた。笠松山城は須佐漁港の西にあり、東麓の益田家墓所から上がれ、ヤブも少なく歩きやすい。懸の城は須佐駅の東に位置し、中腹の墓地まで山道があるが、山頂直下でややシダヤブとなる。(2022.5.3)
〈参考資料〉
『山口県中世城館遺跡総合調査報告書―長門国編―』、HP『城郭放浪記』(笠松山城)
須佐漁港から笠松山城跡
(1,2クリックで拡大)
◆笠松山城
●駐車地~益田家墓所~山頂
須佐漁港の駐車地が利用できトイレもある。駐車地から笠松山城が望める。
新港橋を渡り県道343号に出ると、すぐ左に益田家墓所の案内標識があり、ここが登山口となる。
新港橋・笠松山城
益田家墓所入口
墓所案内板
石段を登り切ると、第二十代益田元祥以降の累代墓が並ぶ墓所に着く。益田氏は毛利氏に従い関ケ原の戦いに敗れた後、益田から須佐に転封され、毛利家の永代家老を勤めたという。案内板によるとこれだけの累代墓が一か所にまとまってあるのは全国でも珍しいとのこと。
ただし、笠松山城自体は益田氏のものではなく、それ以前の吉見氏が築城したもののようだ。
石段
石段
墓所
高山・須佐漁港
山頂へは墓所の北端から尾根に取り付く。右下は急峻な崖となっており足がすくみそうなので、少し左に回り込んであがる。
明確な道はないが、歩きやすい雑木疎林の緩やかな尾根を登る。
尾根取り付き
雑木尾根
雑木尾根
標高60mあたりの平坦地を過ぎると、縄張り図にある郭跡を確認しながら上がる。途中2箇所ほど段差のある崖(切岸)にロープが設置してある。
60m平坦尾根
郭Ⅳ
郭Ⅳ(横から)
切岸・ロープ
郭Ⅲ
郭Ⅲ(横から)
郭Ⅱを登ると郭Ⅰ(主郭)に着く。
郭Ⅱ
郭Ⅱ(横から)
郭Ⅰ(東側)
主郭の中央部にくぼみがあり、これを境に東西に少し段差がある。西側中央に四等三角点「笠松」を見る。
中央部のくぼみ
郭Ⅰ(西側)・三角点
四等三角点「笠松」
郭Ⅰ(西側)逆方向から
山頂から南尾根側と西尾根側を少し探索してみた。
西側切岸
●~駐車地
帰路は80m支尾根分岐点(郭Ⅲ)まで戻り、南東側の植林境尾根へ下ってみた。
植林境・下り
勾配が緩み、60m支尾根分岐点で左(北東)の支尾根へ下る。踏み跡が残る雑木尾根を下っていくと、突然眼下に墓地が現れた。明治15年の建立碑には「益田家祖先合葬墓」とある。須佐転封以前の墓を合葬したものだろうか。石垣で囲まれた上には五輪塔の上部分だけがいくつか祀られている。こちらへ参拝する人はほとんどいないらしくさびれた感じだ。
雑木尾根・下り
雑木尾根・下り
益田氏祖先合葬墓
石垣
墓所の右手から続く小道を下っていくと、益田家墓所へあがる石段と合流した。
山道
山道・植林沿い
石段道出合い
◆懸の城
●駐車地~墓地跡~山頂
益田家墓所より懸の城(左)
(1,2クリックで拡大)
JR山陰本線の踏切を渡り、青葉台団地や須佐中学校へ上がる車道の途中に路肩スペースが数か所あり、一番広いスペースに車を置く。
駐車スペース
駐車地から懸の城
取り付きを探しながら車道を下っていくが、適当なところが見つからないので、倉庫らしき建物がある敷地内を通らせてもらい、尾根に取り付く。
倉庫敷地入口
取り付き斜面
急勾配の雑木疎林尾根を這い上がり支尾根上に出る。明瞭な踏み跡はないが疎林で案外歩きよい。
支尾根へ出る
雑木尾根
標高30mあたりの平坦地を過ぎ、ややヤブ気味の尾根を登り切ると左尾根と合流し削平地に出る。古墓(宝暦年間など)が重ねられ、そばに「山下範三郎安邦神霊」と刻まれた供養塔らしきものが立つ。
塔の裏側には「明治元戊辰年七月四日戦死于越後國螺嶽」とあり、戊辰戦争の戦没者を祀ったもののようだ。
平坦地
平坦地(横から)
支尾根合流点手前
支尾根合流点・植林境
供養塔?・古墓
供養塔
右折し植林境の尾根を登る。尾根上はシダ等で荒れているので、植林側に付けられた踏み跡をたどる。
標高60mあたりで植林が終わるとシダ被りの雑木尾根となる。
植林境(右斜面側の踏み跡)
植林頂部
雑木尾根・シダヤブ
膝丈程度のシダを分けながら登っていくと、やや平坦な北ピークへ着く。
シダヤブ
北ピーク
さらに山頂尾根を進むと南ピークに至る。いずれのピークも疎林が茂り落ち着かない。また樹木に遮られほとんど展望は得られないが、南ピークでは樹間越しに丸嶽がわずかに望める。
山頂尾根
南ピーク
南方向わずかに丸嶽
●~墓地~駐車地
帰路は墓地跡まで戻り、そのまま尾根を直進して下る。歩きやすい雑木疎林尾根を下っていくと、眼下に墓地が現れる。
文化年間など江戸末期の墓が並ぶほか昭和年代の新しい墓もあり、まだ参り手はあるようだ。
雑木尾根・下り
雑木尾根・下り
古墓
墓まで通じている山道を下る。右斜面上にも墓地がある。左の谷に倒壊した小屋らしき建物跡を見て、下り切ると線路沿いの民家裏に出る。
山道・上にも墓
山道
民家裏(逆方向)
民家敷地際の踏み跡をたどり(夏季は草が茂るかも?)、電柱「アオバダイ 15 左17」の建つところで舗装道へ出る。水路沿いの舗装された小道を通り車道へ出た。
敷地沿いの踏み跡
舗装道出合い(逆方向)
水路沿い
■城跡について
いずれも『地下上申』と『風土注進案』に次の記載がある。
●笠松山城
・『地下上申』
「笠松山 田屋ノ上に有之
但古老諺に、吉見家築所之要害申伝候、時代不分明笠松と申名由緒不分明、只今は田屋山にて御座候事」
・『風土注進案』
「笠松山古城 須佐笠松山ニアリ
當城は吉見家の出城と申傳候事
右笠松山の古城跡ハ御領主様御田屋山にて巨細は相知不申候事」
●懸の城
・『地下上申』
「掛ノ城 水海に有之
但石州益田家之抱出城にて、寺戸大学と申仁居申之由申伝候事」
・『風土注進案』
「懸之古城 水海ニアリ
當城は寺戸大學と申人居候由、是も益田家の御抱出城と申傳候事
右山の高サ凡壹丁半位にて山上に方三四畝もあらん思しき平地あり、山方形三方ハ険阻にして壹方は尾續、全ク時の要害にて居城とは相見へ不申候事」
〈参考資料〉
『山口県中世城館遺跡総合調査報告書―長門国編―』、HP『城郭放浪記』(笠松山城)
須佐漁港から笠松山城跡
(1,2クリックで拡大)
◆笠松山城
●駐車地~益田家墓所~山頂
須佐漁港の駐車地が利用できトイレもある。駐車地から笠松山城が望める。
新港橋を渡り県道343号に出ると、すぐ左に益田家墓所の案内標識があり、ここが登山口となる。
新港橋・笠松山城
益田家墓所入口
墓所案内板
石段を登り切ると、第二十代益田元祥以降の累代墓が並ぶ墓所に着く。益田氏は毛利氏に従い関ケ原の戦いに敗れた後、益田から須佐に転封され、毛利家の永代家老を勤めたという。案内板によるとこれだけの累代墓が一か所にまとまってあるのは全国でも珍しいとのこと。
ただし、笠松山城自体は益田氏のものではなく、それ以前の吉見氏が築城したもののようだ。
石段
石段
墓所
高山・須佐漁港
山頂へは墓所の北端から尾根に取り付く。右下は急峻な崖となっており足がすくみそうなので、少し左に回り込んであがる。
明確な道はないが、歩きやすい雑木疎林の緩やかな尾根を登る。
尾根取り付き
雑木尾根
雑木尾根
標高60mあたりの平坦地を過ぎると、縄張り図にある郭跡を確認しながら上がる。途中2箇所ほど段差のある崖(切岸)にロープが設置してある。
60m平坦尾根
郭Ⅳ
郭Ⅳ(横から)
切岸・ロープ
郭Ⅲ
郭Ⅲ(横から)
郭Ⅱを登ると郭Ⅰ(主郭)に着く。
郭Ⅱ
郭Ⅱ(横から)
郭Ⅰ(東側)
主郭の中央部にくぼみがあり、これを境に東西に少し段差がある。西側中央に四等三角点「笠松」を見る。
中央部のくぼみ
郭Ⅰ(西側)・三角点
四等三角点「笠松」
郭Ⅰ(西側)逆方向から
山頂から南尾根側と西尾根側を少し探索してみた。
西側切岸
●~駐車地
帰路は80m支尾根分岐点(郭Ⅲ)まで戻り、南東側の植林境尾根へ下ってみた。
植林境・下り
勾配が緩み、60m支尾根分岐点で左(北東)の支尾根へ下る。踏み跡が残る雑木尾根を下っていくと、突然眼下に墓地が現れた。明治15年の建立碑には「益田家祖先合葬墓」とある。須佐転封以前の墓を合葬したものだろうか。石垣で囲まれた上には五輪塔の上部分だけがいくつか祀られている。こちらへ参拝する人はほとんどいないらしくさびれた感じだ。
雑木尾根・下り
雑木尾根・下り
益田氏祖先合葬墓
石垣
墓所の右手から続く小道を下っていくと、益田家墓所へあがる石段と合流した。
山道
山道・植林沿い
石段道出合い
◆懸の城
●駐車地~墓地跡~山頂
益田家墓所より懸の城(左)
(1,2クリックで拡大)
JR山陰本線の踏切を渡り、青葉台団地や須佐中学校へ上がる車道の途中に路肩スペースが数か所あり、一番広いスペースに車を置く。
駐車スペース
駐車地から懸の城
取り付きを探しながら車道を下っていくが、適当なところが見つからないので、倉庫らしき建物がある敷地内を通らせてもらい、尾根に取り付く。
倉庫敷地入口
取り付き斜面
急勾配の雑木疎林尾根を這い上がり支尾根上に出る。明瞭な踏み跡はないが疎林で案外歩きよい。
支尾根へ出る
雑木尾根
標高30mあたりの平坦地を過ぎ、ややヤブ気味の尾根を登り切ると左尾根と合流し削平地に出る。古墓(宝暦年間など)が重ねられ、そばに「山下範三郎安邦神霊」と刻まれた供養塔らしきものが立つ。
塔の裏側には「明治元戊辰年七月四日戦死于越後國螺嶽」とあり、戊辰戦争の戦没者を祀ったもののようだ。
平坦地
平坦地(横から)
支尾根合流点手前
支尾根合流点・植林境
供養塔?・古墓
供養塔
右折し植林境の尾根を登る。尾根上はシダ等で荒れているので、植林側に付けられた踏み跡をたどる。
標高60mあたりで植林が終わるとシダ被りの雑木尾根となる。
植林境(右斜面側の踏み跡)
植林頂部
雑木尾根・シダヤブ
膝丈程度のシダを分けながら登っていくと、やや平坦な北ピークへ着く。
シダヤブ
北ピーク
さらに山頂尾根を進むと南ピークに至る。いずれのピークも疎林が茂り落ち着かない。また樹木に遮られほとんど展望は得られないが、南ピークでは樹間越しに丸嶽がわずかに望める。
山頂尾根
南ピーク
南方向わずかに丸嶽
●~墓地~駐車地
帰路は墓地跡まで戻り、そのまま尾根を直進して下る。歩きやすい雑木疎林尾根を下っていくと、眼下に墓地が現れる。
文化年間など江戸末期の墓が並ぶほか昭和年代の新しい墓もあり、まだ参り手はあるようだ。
雑木尾根・下り
雑木尾根・下り
古墓
墓まで通じている山道を下る。右斜面上にも墓地がある。左の谷に倒壊した小屋らしき建物跡を見て、下り切ると線路沿いの民家裏に出る。
山道・上にも墓
山道
民家裏(逆方向)
民家敷地際の踏み跡をたどり(夏季は草が茂るかも?)、電柱「アオバダイ 15 左17」の建つところで舗装道へ出る。水路沿いの舗装された小道を通り車道へ出た。
敷地沿いの踏み跡
舗装道出合い(逆方向)
水路沿い
■城跡について
いずれも『地下上申』と『風土注進案』に次の記載がある。
●笠松山城
・『地下上申』
「笠松山 田屋ノ上に有之
但古老諺に、吉見家築所之要害申伝候、時代不分明笠松と申名由緒不分明、只今は田屋山にて御座候事」
・『風土注進案』
「笠松山古城 須佐笠松山ニアリ
當城は吉見家の出城と申傳候事
右笠松山の古城跡ハ御領主様御田屋山にて巨細は相知不申候事」
●懸の城
・『地下上申』
「掛ノ城 水海に有之
但石州益田家之抱出城にて、寺戸大学と申仁居申之由申伝候事」
・『風土注進案』
「懸之古城 水海ニアリ
當城は寺戸大學と申人居候由、是も益田家の御抱出城と申傳候事
右山の高サ凡壹丁半位にて山上に方三四畝もあらん思しき平地あり、山方形三方ハ険阻にして壹方は尾續、全ク時の要害にて居城とは相見へ不申候事」
2022-05-05 16:43
コメント(0)