古別所山・岩崎寺山・別所山(山陽小野田市高畑) [県西部の山]
岩崎寺の北方に連なる山塊を江汐公園側から縦走してみた。
まずは高圧線鉄塔の巡視路を利用し古別所山へ上がり、岩崎寺山へ縦走。八十八か所巡りの巡拝路をたどって岩崎寺へ下る。再び巡視路を上がって古別所山まで戻り、三等三角点のある別所山をめざし北へ向かう。
別所山からの下山道は、当日北ルートと西ルートをたどってみたが、ヤブ化しているところがあったので、数日後北東麓の仁保ノ上古墳側からのルートも探索してみた。(2022.1.10)
千歳橋から岩崎寺山
古別所山
企業団地から別所山
(1,2クリックで拡大)
●江汐公園第二駐車場~巡視路取り付き~古別所山
県道を横切り、高畑受水槽の建物の横から舗装管理道へ入る。
公園第二駐車場
管理道入口
管理道
高圧線鉄塔の手前で道路法面を上がり、巡視路に取りつくとすぐ鉄塔No.39に出合う。
巡視路取り付き
鉄塔No.39
巡視路をたどり、鉄塔No.38を過ごすと一旦高畑集落へ出る。
竹林沿いの巡視路
巡視路・標柱
巡視路
掘割道を横切る
コン杭4本・右へ
右に鉄塔No.38
倒竹
掘割道
民家に出合う
標柱
分岐を左に取る方が近道だが、民家の敷地内を抜けるように見えたので、回り道になるが河内神社を経由し、神社左手の林道へ入る。
庚申塚
河内社
林道入口
林道から鉄塔No.37
農機具小屋のところから右の山道へ入ると溜池と出合う。土手へ出て、水路を横切ると再び巡視路に入る。
農機具小屋横から山道を右へ
土手を上がる
溜池
水路を渡る
右下に標柱
雑木尾根を登り、鉄塔No.37を過ぎると右へトラバースしながらの登りとなる。
雑木尾根を上がる
標柱
鉄塔No.37
右へトラバースしながら進む
右に伐採地を過ごすとまもなく主尾根上へ出る。右折するとすぐ右下に鉄塔No.36が建つ。
標柱
右に伐採地
6標柱・主尾根出合い
右下に鉄塔No.36
尾根上に続く巡視路を進み、登り返すと105mピークの古別所山に着く。左に標柱を見る。山頂は小広場となっているが樹木にさえぎられ展望は得られない。
主尾根を進む
竹交じり
105mピーク手前
古別所山山頂・標柱
●~岩崎寺山~岩崎寺
ここで巡視路は東方向へ下っているが、そのまま尾根を南へ向かう。尾根上は幅広く樹木がなく歩きよい。植林沿いに緩い尾根をアップダウンしながら下っていく。
緩い雑木尾根を下る
植林沿い
コン柱
植林沿い
石杭
前方に突然大きな石仏が現れ驚く。大日如来とあり両側にも石仏が続いている。八十八か所巡りの石仏らしい。そばに瓦積みが残っている(石仏を納めたお堂の跡とわかる)。
大日如来
49番石仏
古瓦
逆まわりに石仏をたどって巡拝路を下ることにする。44番と43番の石仏の間でケーブル埋設道が横切る。左道は下方へ下っており、右道を上がりヒノキ植林の中を抜けると中央にテレビ共同アンテナが建つ広場へ出た。残念ながら展望はない。アンテナは現在も稼働中のようで下草がきれいに刈られている。
分岐・44番石仏
左下方のケーブル埋設道
ヒノキ林沿い
テレビ共同ンテナ・岩崎寺山頂広場
巡拝路に戻り石仏を確認しながら下る。途中数か所巡拝路が左へ分岐するので、少し立ち寄りながら下っていくと、谷あいの墓地へ抜け出る。左折して墓地沿いに下り岩崎寺(がんきじ)の境内へ降り立つ。
三十三か所巡拝路
十一面観音(33番観音)
19番石仏・23番観音(逆方向)
癪王大権現ほか
12番石仏(逆方向)
墓地出合い(逆方向)
本堂
観音堂仏像説明板
岩崎寺鰐口説明板
兒玉若狭守元兼(毛利家重臣)の宝篋印塔
※当日、石仏をたどってもう一度麓から巡拝路を一部歩いてみたが、四国八十八ヶ所霊場と西国三十三ヶ所観音霊場の石仏が混在し、巡拝路も輻輳しているので途中であきらめた。
帰宅後、創建千二百年記念誌「曹洞宗海福山 岩崎寺」(平成22年発刊)に記載の石仏配置図を入手した。石仏は大正初期に設置されたものらしい。図を参考に巡拝路を再度歩いてみた。
両霊場の順路はおおざっぱに言うと、八十八ヶ所霊場が大きな円を時計回りにめぐり、三十三ケ所観音霊場がその円の下からジグザグに途中まで上がっていると思えばよい。
石仏の配置や巡拝路はおおよそ図のとおりだが、作成後に裏山のガケ崩れや植林・伐採等により巡拝路の一部変更、石仏の消失・配置換えなどが生じたと思われ、特に観音霊場の石仏への影響が大きい。最近は巡拝者もほとんどないようで、倒壊やヤブに埋もれかけている石仏もあった。
石仏配置図(拡大可)
分岐・83番石仏
79番石仏
75番石仏
67番石仏・ケーブル埋設道分岐
64番石仏・ケーブル埋設道分岐
59番石仏
下降地点
●~どうかん屋敷跡~巡視路取り付き~古別所山
岩崎寺から有帆川沿いに市道を北上する。山陽自動車道の高架橋下を抜けるとまもなく、左手に「どうかん屋敷跡」がある。説明文によると昔の豪族の屋敷跡と伝えられ、明徳三年(室町初期)の銘がある岩崎寺観音堂の鰐口に、奉納者として「道乾」の名があるという。
庚申塚
どうかん屋敷跡
屋敷跡(逆方向)
説明板
すぐ先で水路を渡り畦道を山側へ進むと、左下に標柱が倒れているのを見て巡視路に取り付く。
巡視路入口(逆方向)
標柱(倒)
急坂の道を登り、右の小尾根へ上がって登り切ると鉄塔No.35に出合う。少し登るとふたたび古別所山山頂に立つ。
竹林沿い
右の小尾根へ・プラ段
鉄塔No.35
古別所山山頂
●~別所山
別所山へ向けて尾根を北上する。巡視路を左へ過ごし雑木尾根を進む。踏み跡のない疎林尾根が続く。
雑木尾根
石柱「村有林73」
石杭
雑木尾根・下り
尾根・上り
100mピークを越え鞍部で登り返すと、平坦な100m南ピークに出る。
100mピーク
尾根・下り
鞍部
尾根・上り
支尾根合流点
南峰平坦ピーク
三角点はすぐ先の北ピークだが、測量時に伐採されたためか周囲がブッシュ化している。左に逃げながらヤブが少し薄くなったあたりで右のヤブへ入ると、ヤブが透けたところにちょうど三等三角点「別所」があった。
山頂手前の灌木ヤブ
三等三角点「別所」
●~駐車場
別所山からの下山ルートは思いがけず手間取った。
①〈北ルート〉 ~車道出合い~駐車地
最初は方向を確認しながら北方向へ疎林尾根を下る。
雑木尾根・下り
雑木尾根・下り
地形図に実線道があるので企業団地へ楽に降りられると思ったら、眼下に工場が見えるところでひどいヤブに阻まれた。
雑木尾根(先端部)
ヤブを透かして企業団地
企業団地の敷地沿いにヤブが続くので、右へよけながら谷沿いに下っていくと、涸れ溜池あたりから山道が現れた。
右の緩い疎林谷を下る
植林沿い
涸れ溜池出合い
山道
旧耕作地沿いに下っていき、ササヤブを抜けると通信施設に出合う。カヤをわけながら民家そばから車道へ出た。
竹林沿い
ヤブ
通信施設
民家横から通信施設・カヤヤブ(逆方向)
企業団地内を通って駐車場へ戻る。
別所山・名切溜池
➁〈西ルート〉 ~高畑配水池下~駐車地
当日、今度は駐車場から配水池の管理道を利用し別所山山頂までピストンしてみた。
(上りの説明は省略)
山頂から南の支尾根合流点まで戻り、西の緩い疎林谷へ向けて下っていくとケーブル埋設道に出合う。
下方の谷へ向かう
ケーブル埋設のコン杭
少し下ると高畑配水池の法面下に出る。法面沿いに作業道跡と思われる道があり、ヤブをよけながら下ると、配水池の舗装管理道と合流。さらに右からの道と合わせて進むと県道へ出る。
高畑配水池
法面下の作業道跡
タケヤブ
作業道跡
配水池管理道出合い(逆方向)
管理道合流
鉄塔No.39
③〈仁保ノ上古墳ルート〉 ~共同テレビアンテナ跡ピーク~仁保ノ上古墳
帰宅後、山の北東麓に仁保ノ上古墳があることを知り、数日後、古墳側から取り付いてみた。
古墳駐車場に車を置く。階段を上がった小高いところに横穴式古墳がある。菩提寺山方面が見渡せる。
古墳駐車場
横穴式古墳
古墳説明板
幸神(庚申)塚
菩提寺山方面
上へ行くと横穴墓がありその横に石祠がある。墓では家族とみられる四人の人骨等が発見されている。
説明文によると、いずれも六世紀末ごろに築造されたもので、同時期に違う形式のものが同一か所に葬られているのは非常にめずらしいという。
横穴墓・石祠
横穴墓説明板
さらに尾根を上方に向かい、雑木疎林からヒノキ植林沿いに登り切るとテレビ共同アンテナ跡が建つ40mピークに着く。
上方の尾根へ向かう
疎林尾根
植林沿い
植林沿い・上り
テレビ共同アンテナ跡
西へ尾根を下り、鞍部から竹まじりの緩やかな尾根を上がる。
疎林尾根・下り
鞍部
竹林・上り
コン杭
倒竹
疎林
左からの尾根と合流するとまもなくヤブ化した山頂部へ出る。
支尾根合流点手前
雑木尾根
山頂部のヤブ
三等三角点山頂
帰路は古道があったので尾根分岐を東へ下ってみたが、倒竹林ヤブとなったので引き返し、往路のルートを戻った。下りでは支尾根分岐で方向を確認しないと東尾根へ入り込みやすいだろう。
東尾根・下り
竹林ヤブ
■山名について
『地下上申』有帆村石高境目書の御立山の項に古別所山、『風土注進案』東高泊村有帆村に古別所山と岩崎寺山が見えるが、別所山の名は見あたらない。
古別所山は、東麓の「どうかん屋敷」の説明文に記載があることに拠った。
別所山は、三等三角点名が「別所」であり、山陽小野田市のホームページの同古墳の説明文にも別所山とあることに拠った。
岩崎寺山は、創建千二百年記念誌「曹洞宗海福山 岩崎寺」でも裏山を岩崎寺山とした記載がある。ただし、同書では千日如来の立つピークを山頂としているが、ここでは最高処の80mピークとした。
■別所の地名について
「別所」とは、『地名語源辞典』(山中襄太著)によると、一説には俘囚(捕虜)の村と考えられており、主として蝦夷の俘囚を移住させたところらしい。関東から広島までに多く、移住地は42か国1島に及んだという。
岩崎寺の寺伝によれば、寺は大同元年(806年)征夷大将軍坂上田村麻呂が一国一仏を奉納した時に建立されたと言い、寺には本尊の千手観音など平安期の仏像も多い。
岩崎寺との関連から想像が広がる。
まずは高圧線鉄塔の巡視路を利用し古別所山へ上がり、岩崎寺山へ縦走。八十八か所巡りの巡拝路をたどって岩崎寺へ下る。再び巡視路を上がって古別所山まで戻り、三等三角点のある別所山をめざし北へ向かう。
別所山からの下山道は、当日北ルートと西ルートをたどってみたが、ヤブ化しているところがあったので、数日後北東麓の仁保ノ上古墳側からのルートも探索してみた。(2022.1.10)
千歳橋から岩崎寺山
古別所山
企業団地から別所山
(1,2クリックで拡大)
●江汐公園第二駐車場~巡視路取り付き~古別所山
県道を横切り、高畑受水槽の建物の横から舗装管理道へ入る。
公園第二駐車場
管理道入口
管理道
高圧線鉄塔の手前で道路法面を上がり、巡視路に取りつくとすぐ鉄塔No.39に出合う。
巡視路取り付き
鉄塔No.39
巡視路をたどり、鉄塔No.38を過ごすと一旦高畑集落へ出る。
竹林沿いの巡視路
巡視路・標柱
巡視路
掘割道を横切る
コン杭4本・右へ
右に鉄塔No.38
倒竹
掘割道
民家に出合う
標柱
分岐を左に取る方が近道だが、民家の敷地内を抜けるように見えたので、回り道になるが河内神社を経由し、神社左手の林道へ入る。
庚申塚
河内社
林道入口
林道から鉄塔No.37
農機具小屋のところから右の山道へ入ると溜池と出合う。土手へ出て、水路を横切ると再び巡視路に入る。
農機具小屋横から山道を右へ
土手を上がる
溜池
水路を渡る
右下に標柱
雑木尾根を登り、鉄塔No.37を過ぎると右へトラバースしながらの登りとなる。
雑木尾根を上がる
標柱
鉄塔No.37
右へトラバースしながら進む
右に伐採地を過ごすとまもなく主尾根上へ出る。右折するとすぐ右下に鉄塔No.36が建つ。
標柱
右に伐採地
6標柱・主尾根出合い
右下に鉄塔No.36
尾根上に続く巡視路を進み、登り返すと105mピークの古別所山に着く。左に標柱を見る。山頂は小広場となっているが樹木にさえぎられ展望は得られない。
主尾根を進む
竹交じり
105mピーク手前
古別所山山頂・標柱
●~岩崎寺山~岩崎寺
ここで巡視路は東方向へ下っているが、そのまま尾根を南へ向かう。尾根上は幅広く樹木がなく歩きよい。植林沿いに緩い尾根をアップダウンしながら下っていく。
緩い雑木尾根を下る
植林沿い
コン柱
植林沿い
石杭
前方に突然大きな石仏が現れ驚く。大日如来とあり両側にも石仏が続いている。八十八か所巡りの石仏らしい。そばに瓦積みが残っている(石仏を納めたお堂の跡とわかる)。
大日如来
49番石仏
古瓦
逆まわりに石仏をたどって巡拝路を下ることにする。44番と43番の石仏の間でケーブル埋設道が横切る。左道は下方へ下っており、右道を上がりヒノキ植林の中を抜けると中央にテレビ共同アンテナが建つ広場へ出た。残念ながら展望はない。アンテナは現在も稼働中のようで下草がきれいに刈られている。
分岐・44番石仏
左下方のケーブル埋設道
ヒノキ林沿い
テレビ共同ンテナ・岩崎寺山頂広場
巡拝路に戻り石仏を確認しながら下る。途中数か所巡拝路が左へ分岐するので、少し立ち寄りながら下っていくと、谷あいの墓地へ抜け出る。左折して墓地沿いに下り岩崎寺(がんきじ)の境内へ降り立つ。
三十三か所巡拝路
十一面観音(33番観音)
19番石仏・23番観音(逆方向)
癪王大権現ほか
12番石仏(逆方向)
墓地出合い(逆方向)
本堂
観音堂仏像説明板
岩崎寺鰐口説明板
兒玉若狭守元兼(毛利家重臣)の宝篋印塔
※当日、石仏をたどってもう一度麓から巡拝路を一部歩いてみたが、四国八十八ヶ所霊場と西国三十三ヶ所観音霊場の石仏が混在し、巡拝路も輻輳しているので途中であきらめた。
帰宅後、創建千二百年記念誌「曹洞宗海福山 岩崎寺」(平成22年発刊)に記載の石仏配置図を入手した。石仏は大正初期に設置されたものらしい。図を参考に巡拝路を再度歩いてみた。
両霊場の順路はおおざっぱに言うと、八十八ヶ所霊場が大きな円を時計回りにめぐり、三十三ケ所観音霊場がその円の下からジグザグに途中まで上がっていると思えばよい。
石仏の配置や巡拝路はおおよそ図のとおりだが、作成後に裏山のガケ崩れや植林・伐採等により巡拝路の一部変更、石仏の消失・配置換えなどが生じたと思われ、特に観音霊場の石仏への影響が大きい。最近は巡拝者もほとんどないようで、倒壊やヤブに埋もれかけている石仏もあった。
石仏配置図(拡大可)
分岐・83番石仏
79番石仏
75番石仏
67番石仏・ケーブル埋設道分岐
64番石仏・ケーブル埋設道分岐
59番石仏
下降地点
●~どうかん屋敷跡~巡視路取り付き~古別所山
岩崎寺から有帆川沿いに市道を北上する。山陽自動車道の高架橋下を抜けるとまもなく、左手に「どうかん屋敷跡」がある。説明文によると昔の豪族の屋敷跡と伝えられ、明徳三年(室町初期)の銘がある岩崎寺観音堂の鰐口に、奉納者として「道乾」の名があるという。
庚申塚
どうかん屋敷跡
屋敷跡(逆方向)
説明板
すぐ先で水路を渡り畦道を山側へ進むと、左下に標柱が倒れているのを見て巡視路に取り付く。
巡視路入口(逆方向)
標柱(倒)
急坂の道を登り、右の小尾根へ上がって登り切ると鉄塔No.35に出合う。少し登るとふたたび古別所山山頂に立つ。
竹林沿い
右の小尾根へ・プラ段
鉄塔No.35
古別所山山頂
●~別所山
別所山へ向けて尾根を北上する。巡視路を左へ過ごし雑木尾根を進む。踏み跡のない疎林尾根が続く。
雑木尾根
石柱「村有林73」
石杭
雑木尾根・下り
尾根・上り
100mピークを越え鞍部で登り返すと、平坦な100m南ピークに出る。
100mピーク
尾根・下り
鞍部
尾根・上り
支尾根合流点
南峰平坦ピーク
三角点はすぐ先の北ピークだが、測量時に伐採されたためか周囲がブッシュ化している。左に逃げながらヤブが少し薄くなったあたりで右のヤブへ入ると、ヤブが透けたところにちょうど三等三角点「別所」があった。
山頂手前の灌木ヤブ
三等三角点「別所」
●~駐車場
別所山からの下山ルートは思いがけず手間取った。
①〈北ルート〉 ~車道出合い~駐車地
最初は方向を確認しながら北方向へ疎林尾根を下る。
雑木尾根・下り
雑木尾根・下り
地形図に実線道があるので企業団地へ楽に降りられると思ったら、眼下に工場が見えるところでひどいヤブに阻まれた。
雑木尾根(先端部)
ヤブを透かして企業団地
企業団地の敷地沿いにヤブが続くので、右へよけながら谷沿いに下っていくと、涸れ溜池あたりから山道が現れた。
右の緩い疎林谷を下る
植林沿い
涸れ溜池出合い
山道
旧耕作地沿いに下っていき、ササヤブを抜けると通信施設に出合う。カヤをわけながら民家そばから車道へ出た。
竹林沿い
ヤブ
通信施設
民家横から通信施設・カヤヤブ(逆方向)
企業団地内を通って駐車場へ戻る。
別所山・名切溜池
➁〈西ルート〉 ~高畑配水池下~駐車地
当日、今度は駐車場から配水池の管理道を利用し別所山山頂までピストンしてみた。
(上りの説明は省略)
山頂から南の支尾根合流点まで戻り、西の緩い疎林谷へ向けて下っていくとケーブル埋設道に出合う。
下方の谷へ向かう
ケーブル埋設のコン杭
少し下ると高畑配水池の法面下に出る。法面沿いに作業道跡と思われる道があり、ヤブをよけながら下ると、配水池の舗装管理道と合流。さらに右からの道と合わせて進むと県道へ出る。
高畑配水池
法面下の作業道跡
タケヤブ
作業道跡
配水池管理道出合い(逆方向)
管理道合流
鉄塔No.39
③〈仁保ノ上古墳ルート〉 ~共同テレビアンテナ跡ピーク~仁保ノ上古墳
帰宅後、山の北東麓に仁保ノ上古墳があることを知り、数日後、古墳側から取り付いてみた。
古墳駐車場に車を置く。階段を上がった小高いところに横穴式古墳がある。菩提寺山方面が見渡せる。
古墳駐車場
横穴式古墳
古墳説明板
幸神(庚申)塚
菩提寺山方面
上へ行くと横穴墓がありその横に石祠がある。墓では家族とみられる四人の人骨等が発見されている。
説明文によると、いずれも六世紀末ごろに築造されたもので、同時期に違う形式のものが同一か所に葬られているのは非常にめずらしいという。
横穴墓・石祠
横穴墓説明板
さらに尾根を上方に向かい、雑木疎林からヒノキ植林沿いに登り切るとテレビ共同アンテナ跡が建つ40mピークに着く。
上方の尾根へ向かう
疎林尾根
植林沿い
植林沿い・上り
テレビ共同アンテナ跡
西へ尾根を下り、鞍部から竹まじりの緩やかな尾根を上がる。
疎林尾根・下り
鞍部
竹林・上り
コン杭
倒竹
疎林
左からの尾根と合流するとまもなくヤブ化した山頂部へ出る。
支尾根合流点手前
雑木尾根
山頂部のヤブ
三等三角点山頂
帰路は古道があったので尾根分岐を東へ下ってみたが、倒竹林ヤブとなったので引き返し、往路のルートを戻った。下りでは支尾根分岐で方向を確認しないと東尾根へ入り込みやすいだろう。
東尾根・下り
竹林ヤブ
■山名について
『地下上申』有帆村石高境目書の御立山の項に古別所山、『風土注進案』東高泊村有帆村に古別所山と岩崎寺山が見えるが、別所山の名は見あたらない。
古別所山は、東麓の「どうかん屋敷」の説明文に記載があることに拠った。
別所山は、三等三角点名が「別所」であり、山陽小野田市のホームページの同古墳の説明文にも別所山とあることに拠った。
岩崎寺山は、創建千二百年記念誌「曹洞宗海福山 岩崎寺」でも裏山を岩崎寺山とした記載がある。ただし、同書では千日如来の立つピークを山頂としているが、ここでは最高処の80mピークとした。
■別所の地名について
「別所」とは、『地名語源辞典』(山中襄太著)によると、一説には俘囚(捕虜)の村と考えられており、主として蝦夷の俘囚を移住させたところらしい。関東から広島までに多く、移住地は42か国1島に及んだという。
岩崎寺の寺伝によれば、寺は大同元年(806年)征夷大将軍坂上田村麻呂が一国一仏を奉納した時に建立されたと言い、寺には本尊の千手観音など平安期の仏像も多い。
岩崎寺との関連から想像が広がる。
2022-01-16 22:25
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