赤谷(あかんた)山(美祢市秋芳町別府) [県北部の山]
前回は10年前の3月に登ったが、相変わらず山頂部の尾根には明瞭な道やテープはなく、夏場は敬遠したほうがよさそうだ。
登山口となる江原(よわら)は難読地名のひとつだろう。カルスト地形ウバーレの底部や斜面に数十戸の家がひっそりと固まり合い集落をなしている。昭和15年9月の大火で六十戸が全焼したというのが嘘のようだ。
江原よりあかんた山
江原集落と三ヶ台
(クリックで拡大)
江原集落北方の県道が広くなった所に車を置く。県道を北へ少し下り、資材置き場向かい側の山際に踏み跡があるので、これに取り付く。
登山口(左は資材置場)
ヤブ気味の登山口
ササが少し被るがまもなく植林帯の山道となり、左カーブし尾根伝いに進む。
ササ被りの道
歩きやすくなる
植林帯の山道(左カーブ地点)
植林帯の尾根道
右に踏み跡を分け直進すると、左へトラバース気味となり、やがて幅広道に変わる。(前回はここで右の植林尾根に踏み跡があり、これに取り付いて尾根を登った。途中から踏み跡も消えたので、そのまま尾根伝いに進み、山頂を踏んだ。)
踏み跡が分岐
トラバース気味の道
幅広道
幅広道が少し草被り始めると、右上に道路の法面が見えてきた。斜面を少し登ると、新設林道の終点に飛び出る。そのまま林道をたどってみることにする。
林道終点に出る
緩やかな勾配の林道を進み高度を上げていくと、左手後方に三ヶ台や南台の石灰採石場の展望が広がる。
新設林道
一部コンクリート舗装
三ヶ台
石灰採石場
林道を登り詰め、下り勾配に変わり再びコンクリート舗装となるあたりで、右斜面に踏み跡があったので、これに取り付く。
尾根取り付き
すぐに倒木ヤブとなるが、抜けると尾根道の名残があり、少し歩きやすくなる。これも長くは続かず、道も消え、植林帯の中の歩きやすいところ選びながら緩やかな尾根を進む。
倒木ヤブ
尾根道
雑木尾根
植林帯
段状となったところが数ヶ所あり(採掘跡か?)、これを越えていくと、石灰岩が重なる山頂部の一角に出る。
石灰岩の集積
植林帯の中、一旦凹部となったところを進み、再び石灰岩が集まったところを越えると、三角点山頂部となる。三角点を探すのに少々手間取ったが、植林帯の中に雑木の小空間があり、中央部に少し草を被った三等三角点(基準点名「赤ノ谷」)を見つけた。植林に囲まれ展望は得られない。
凹部の小穴
石灰岩の集まり
三角点山頂
帰路は、前回登ったルートで降りようと試みたが、ヤブ気味なのであきらめ、上りと同じルートで林道まで戻った。ここから林道をそのまま先へ下ることにした。荒れのない林道をいくつか分岐を過ごしながら下っていくと、県道に出た。
林道
林道分岐を左へ
林道
林道入口と車止めチェーン
途中、集落内の水神社や安楽寺に立ち寄りながら、駐車地へ戻る。
水神社は風土注進案にも記載があり、境内には「別府小学校江原分校趾」の石碑が建つ。
水神社
奉納された鹿の角と額
分校趾石碑
安楽寺は美祢市渋木の浄土寺の末寺で、昭和15年の大火で焼失した。風土注進案の嘉万村の項には、江原の地名は寺の山号である江原山に由来する旨記している。なお現在の山号は清峯山に変わっている。
安楽寺
また、門前の阿弥陀堂横に「横田先生之碑」がある。「秋芳町史」(平成16年改訂版発行)によると、横田黙輔(1836~1916)は萩藩士の家に生まれたが、明治6年に江原へ招かれ、私塾「尚義館」を開いて子弟教育に尽力したという。
横田先生之碑と阿弥陀堂
帰宅後ネット情報で、集落内に二つの森様、「ヒキの森」と「蛇の森」があることを知った。いずれ再訪したいと思う。
■山名考
「あかんた山」の名は、地下上申や風土注進案には見当たらない。山頂の三角点名は「赤ノ谷」であり、これが訛ったものだろう。「美祢市史」(昭和57年発行)掲載の「美祢市東部付近の地質図」にも山名が見え、ネット情報によれば、秋吉台の代表的な洞窟のひとつ「鷹ヶ穴」がある山として知られ、洞窟関係にその名が散見する。またマンガン鉱石が採掘されたようである(戦時中か?)。
登山口となる江原(よわら)は難読地名のひとつだろう。カルスト地形ウバーレの底部や斜面に数十戸の家がひっそりと固まり合い集落をなしている。昭和15年9月の大火で六十戸が全焼したというのが嘘のようだ。
江原よりあかんた山
江原集落と三ヶ台
(クリックで拡大)
江原集落北方の県道が広くなった所に車を置く。県道を北へ少し下り、資材置き場向かい側の山際に踏み跡があるので、これに取り付く。
登山口(左は資材置場)
ヤブ気味の登山口
ササが少し被るがまもなく植林帯の山道となり、左カーブし尾根伝いに進む。
ササ被りの道
歩きやすくなる
植林帯の山道(左カーブ地点)
植林帯の尾根道
右に踏み跡を分け直進すると、左へトラバース気味となり、やがて幅広道に変わる。(前回はここで右の植林尾根に踏み跡があり、これに取り付いて尾根を登った。途中から踏み跡も消えたので、そのまま尾根伝いに進み、山頂を踏んだ。)
踏み跡が分岐
トラバース気味の道
幅広道
幅広道が少し草被り始めると、右上に道路の法面が見えてきた。斜面を少し登ると、新設林道の終点に飛び出る。そのまま林道をたどってみることにする。
林道終点に出る
緩やかな勾配の林道を進み高度を上げていくと、左手後方に三ヶ台や南台の石灰採石場の展望が広がる。
新設林道
一部コンクリート舗装
三ヶ台
石灰採石場
林道を登り詰め、下り勾配に変わり再びコンクリート舗装となるあたりで、右斜面に踏み跡があったので、これに取り付く。
尾根取り付き
すぐに倒木ヤブとなるが、抜けると尾根道の名残があり、少し歩きやすくなる。これも長くは続かず、道も消え、植林帯の中の歩きやすいところ選びながら緩やかな尾根を進む。
倒木ヤブ
尾根道
雑木尾根
植林帯
段状となったところが数ヶ所あり(採掘跡か?)、これを越えていくと、石灰岩が重なる山頂部の一角に出る。
石灰岩の集積
植林帯の中、一旦凹部となったところを進み、再び石灰岩が集まったところを越えると、三角点山頂部となる。三角点を探すのに少々手間取ったが、植林帯の中に雑木の小空間があり、中央部に少し草を被った三等三角点(基準点名「赤ノ谷」)を見つけた。植林に囲まれ展望は得られない。
凹部の小穴
石灰岩の集まり
三角点山頂
帰路は、前回登ったルートで降りようと試みたが、ヤブ気味なのであきらめ、上りと同じルートで林道まで戻った。ここから林道をそのまま先へ下ることにした。荒れのない林道をいくつか分岐を過ごしながら下っていくと、県道に出た。
林道
林道分岐を左へ
林道
林道入口と車止めチェーン
途中、集落内の水神社や安楽寺に立ち寄りながら、駐車地へ戻る。
水神社は風土注進案にも記載があり、境内には「別府小学校江原分校趾」の石碑が建つ。
水神社
奉納された鹿の角と額
分校趾石碑
安楽寺は美祢市渋木の浄土寺の末寺で、昭和15年の大火で焼失した。風土注進案の嘉万村の項には、江原の地名は寺の山号である江原山に由来する旨記している。なお現在の山号は清峯山に変わっている。
安楽寺
また、門前の阿弥陀堂横に「横田先生之碑」がある。「秋芳町史」(平成16年改訂版発行)によると、横田黙輔(1836~1916)は萩藩士の家に生まれたが、明治6年に江原へ招かれ、私塾「尚義館」を開いて子弟教育に尽力したという。
横田先生之碑と阿弥陀堂
帰宅後ネット情報で、集落内に二つの森様、「ヒキの森」と「蛇の森」があることを知った。いずれ再訪したいと思う。
■山名考
「あかんた山」の名は、地下上申や風土注進案には見当たらない。山頂の三角点名は「赤ノ谷」であり、これが訛ったものだろう。「美祢市史」(昭和57年発行)掲載の「美祢市東部付近の地質図」にも山名が見え、ネット情報によれば、秋吉台の代表的な洞窟のひとつ「鷹ヶ穴」がある山として知られ、洞窟関係にその名が散見する。またマンガン鉱石が採掘されたようである(戦時中か?)。
2012-09-16 16:59
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